プログラム係とはつらいもの

笠井 憲雪(S45,2T)

 合唱の年がめぐってきた。4年前に幹事として準備に忙殺された日のことを思い出す。それにしてもあっと言う間の歳月の流れである。

 私の大学卒業は1970年(昭和45年),いわゆる70年安保のピークの年である。現役の皆さんがこの世に誕生した前後である。1年目,2年目まではまじめな活動を行っていたものの,3年目頃からは東大闘争の影響を受け北大でも学園紛争が始まり,団員の少なからぬ部分も運動に走り,団も縮小されて行った。かく言う私も紛争の中に飛び込み,3年目には年末の「第9合唱」にだけは参加したが,その後自然退団の形になってしまった。このように正式に退団していない人物がなぜ十数年後に“発掘”されて,第3回OB演奏会の幹事までやらされたかについては,以前のOB通信に書いたことがある。実質2年間の現役活動であったが,その2年目にはプログラム係を仰せつかった。定期演奏会はもちろんの事,演奏旅行やジョイントコンサートなど演奏会には必ずプログラムはついてまわる。今回の演奏会にもこのように立派な(と言っても原稿を書いている時点ではどんなものやら見当もつかないが……)プログラムが作られたのは,幹事の佐々木君の粘質な性格を反映しているのであろう(佐々木君とは面識はないが,こういう性格でないと原稿は集まらない)。

 プログラム作製では中身はともかく,表紙のデザインにもっとも力がこもる。もちろん絵のセンスなどはないから(だから合唱なんぞをやった!),デザインブックを見たり,他の演奏会のプログラムを“参考”(盗作ではない)にして,もちろん予算の関係からくる大きさや紙質,色の数の制限の中で最大限に努力することになる。私も秋には1967年11月の定期演奏会に向け,ないセンスをしぼり続けた。まず大きさは,奇をてらってA3判の超大判にしよう。客席で大判のプログラムをゆったりと開く。何となくリッチだ。表紙は落ちついた気品のある配色にして,幾何学模様の斬新なデザインにしよう。文字はゴチャゴチャ入れず,英語ですっきりと「コンサート」とのみ入れよう。そして基本デザインをデザインブックからちょっぴり拝借して,濃紺の幾何学模様と,なんと“金色”のゴシックで大きく「コンサート」と英語のタイトルを入れた,それまでで最も大型のプログラムが出来上がった。我ながら感心する出来映え。歴代のプログラムと比較しても見劣りはしない。いよいよ当日,開場と同時にお客が入り始め,誇らしげなプログラムが配られる。……と友人が近寄ってきて曰く「笠井君,この“コンサート”のスペルは違っていないカイ。CONSERTではなくCONCERTではなないのかネ」「!」。20数年たった今でも,この事を思い出すと冷や汗がジワーっと出てくる。

(第4回OB演奏会プログラムより転載)

←前のエッセイを読む第4回の演奏曲目↑次のエッセイを読む→